「考えない練習」読書メモ

「考えない練習」

このごろ、小池龍之介さんの本をよく読んでいます。
ベストセラーになるだけあって、とても興味を引きます。ワールドに引き込まれると言うか。
この本を読んで、自分のなかで、いろんな「気付き」に巡り合えたことも、嬉しく思います。

心はひたすら「より強い刺激を求めて暴走する」と言う特徴を持っていると言うことです。淡くて穏やかな幸福感よりもネガティブな考えごとの方がはるかに強い刺激の電気ショックを脳に与えてくれますから、なかなかストップできません。” P6

脳はそれが本人にとって良い影響なのか、悪い影響なのかにかかわらず、より強い刺激を求めてしまう。心の中で、誰かのことを批判していたり、過去の嫌な思い出を巡らせては腹を立てたり、そういった考えが頭の中をグルグルと回ってはなれないと言うのは、脳が刺激を求めているからなんだと気が付きました。ハッとするとついやってしまっていて、無駄に機嫌が悪くなっていることってありますからね。
それが、脳の刺激を求める習性によるものだったと言われると、脳って厄介なものだなって思いますね。

考えるせいで、人の集中力が低下したり、イライラしたり、迷ったりしているのではないかと思っています。いわば「思考病」とでも申せましょうか。” P18

以前、認知行動療法と言う臨床心理学の一部を勉強したことがありますが、この本で言われる思考病というのは認知行動療法で言う「自動思考」に近いのではないでしょうか。

この自動思考と言うのは、僕たちの頭の中に絶えず浮かんでくる断片的な考えやイメージです。たとえば嫌いなタレントがテレビに映っているのを見たとして、「うわ!こいつ嫌いなんだよ。チャンネル変えろよ」とか、車の運転中に自分の前で赤信号になってしまったとき「今日はあんまりついてないなぁ」とか、そう言う勝手に浮かんでくる考えです。
そして大事なのは、人間がよい気分になったり悪い気分になったりするのは、その時の状況がそうさせるのではなく、その時の状況を受けてどのような思考が浮かんだかによって左右されていると言うことです。ようは気分が良くなるのも、悪くなるのも自動思考次第。
しかし、自動思考はその名の通り自動的に浮かんできてしまう物なのでコントロールが難しいのです。

認知行動療法は普段のトレーニングによって、この自動思考を認識し、嫌な気分のもとになる自動思考を変える技術を磨いたり、さらに自動思考の奥に潜んでいる根本のものを改善しようとします。

仏教や座禅瞑想は、瞑想などの修行によって、思考と言うものに働きかけ、やはり心の状態を改善していくもののようです。
アプローチの仕方は違いますが、なにか同じ方向性思っているようにも思います。興味深いです。

感覚に能動的になることで心は充足する”  P34
「聞こている」を「聞く」に変え、「見えている」を「見る」に変えるように五感を研ぎ澄ます練習をしていきますと、一見つまらなそうに見えるものにも充実を感じてきます。現実がつまらないからと言って、脳をバリバリ刺激するような娯楽に逃避しなくても、いつもの日常を繊細な味わいを持って楽しめるようになるのです。” P37

子どもの頃は、どんなことも新鮮に感じて毎日が楽しいのですが、大人になり年を取るにつれて、楽しむ能力っていうんでしょうか、それが確実になくなっていくじゃないですか。
でも、子どもの頃の新鮮な楽しい感覚っていうのはよく覚えていて、もう一度その感覚が欲しいものだから、色々 馬鹿なことしちゃうって言う。
座禅や瞑想をすることが、そう言った感覚を取り戻す旅のようなものだとしたら、これはやってみる価値のあるものなのかもしれません。

野菜は、無農薬野菜や化学肥料を使っていないもののほうが体に良いことに加えて、薄めの味付けでも十分に食材の味が引き出されます。
農薬を使って大量に安く売っているような野菜は、虫の殺生をしながら環境破壊に加担するという側面もありますから、あまりお勧めできません
。”  P154

・・・ここですよ。ここ。
この本で一番注目すべきところはここです。
全くほんとにその通りです。さすが和尚さん。わかっていらっしゃる。
この人の大ファンになっちゃいそうです。
当方、無農薬・無化学肥料で野菜を育てております。経済効率が悪くて、なかなか厳しいですが、頑張っております。

冗談はさておき、僕のような自然農の人間には禅の考え方とか、生活感は相性がいいのかもしれませんね。そもそも仏僧のような生活をすでにしてますからね・・・。

私はいわゆる日本仏教ではなく、原始仏教系の瞑想をしていますが、日本に伝わっている禅宗系の瞑想は中国で老子思想と混ざり、実質的には道教の影響を強く受けたものです。
そうして変質する前の原始仏教の座禅瞑想は極めて科学的かシステマティックなものだったんですけど
”   p251

科学的かシステマティックということは、思想や宗教を省いたより純粋な座禅瞑想と言うことなんでしょうか。僕みたいに仏教徒ではないけど、座禅瞑想に興味が出てきたという人間には興味深い話です。座禅瞑想をするにしても、宗教観とか思想に染まらずにやってみたいと思うので・・。

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